鳥日記《映画とか演劇とか》

日々見たものを忘れる鳥が日々見たものを忘れないように

《映画》『殺人の追憶』監督:ポン・ジュノ

映画鑑賞記録です。ネタバレ、偏見、ありますのでご注意ください。

ーーーーーー

『社会的、という枠』
素晴らしい映画を見たあとは、現実の世界が違って見える。なんてよく言われる。今まで漠然と見えていた現実に、違う視点が追加されることで、現実が新鮮に映ったり、美しく見えたり。それで「明日から頑張ろう」と思ったりするのである。映画って素晴らしい。

これは、映画が「普遍的な社会」問題をテーマにしているからに他ならない。どんなファンタジーでも、そこに存在する主人公たちの等身大の悩みや葛藤は、私たちの世界と変わらない。だから、共感するし、感動するのである。
たとえばフィクションの最たるものである「SF」でもそれは同じだ。『ブレードランナー』では、人間によって作られたアンドロイド「レプリカント」が、アイデンティティーとは何か、と葛藤するし、『遊星からの物体X』では、密室空間で起こる人々の不安、お互いの信頼関係の崩壊に主題があった。もちろんどちらも、現実には起こりえない話ではあるが、それは現実の延長線上に繰り広げられる話なのは確かである。

そこで、今回の作品『殺人の追憶』である。この映画は韓国で実際に起こった連続強姦殺人事件をモチーフにしている。つまり、物語自体はフィクションであるが、そこに流れる本質は、いえば「社会的」問題をテーマにしている、分かりやすい例ともいえる。主人公たちの葛藤も緻密に描かれていて、それでいて話に無駄がなく、最後まであっという間に見せてくれる。それで終われば十分「いい映画」なのだ。しかし、この映画は、最後にとんでもない仕掛けを施した。

主人公であるパク刑事は、ついに未解決事件となってしまった事件を残し、警察を辞めてしまう。奥さんと家庭を築き、二人の子供を養うため、フツーの会社員として営業先に売りつける商品とともに車に揺られるパク(元)刑事。
そこでふと、冒頭のシーンでパク刑事が最初の死体を発見した事件現場に目がとまる。車を止め、あの時と同じように、農業用の用水路を覗き込む。
そこには、何もない。かつて死体があったその空間には、パク刑事の刑事としての思い、犯人を捕まえることができなかった悔やみ、だけが残されているようにも感じた。

「何してるの?」

そこで急に声をかけられるパク刑事。振り向くと、そこには地元の小学生らしき女の子が立っていた。聞くと、パク刑事の他にもその用水路を覗いていた男がいたらしい。そして、その男は「かつて自分がしたことを思い出して」その用水路を覗いていたらしい。
つまり犯人である。パク刑事に当時の目の輝きが戻ったように見えた。「どんな顔だった?」と質問するパク刑事。女の子は答える。

「普通の顔」

どこにでもいる普通の顔、と女の子は答える。これでは何のヒントにもならない、唖然とするパク刑事。しかし、滾るような目をやめない。何を考えているのだろう。カットがアップに切り替わる、パク刑事はゆっくりこちらを向く。そして、画面の向こうの我々を見つめる。その鋭い眼光で。
そして映画は終わってゆく…。

最後のシーンにどんな意味があるのだろうか。「犯人、つまりこの世界の悪は、特別なものではない、私たちの身近なところに『普通』の顔して存在しているのだ。そして今、画面の向こうで他人事のようにスクリーンを見つめるお前も、きっとそうなんだ」
という監督からのメッセージなのだろう。実に真摯で直球のメッセージである。言葉にしてしまえば何でもないかもしれないが、それを納得させるのは難しい。

このシーンのすごいところは、監督からのメッセージそのものではない。いわばこのシーンは、非常に説明的で、現実とかけ離れた演出である。取引先に行く車を止めて、かつての現場へ向かうパク刑事、現実であれば、取引先を差し置いて思い出の場所へ行くなんて、どう考えても無理がある。しかも車を降りてからのカットは、乗ってきた車すら映っていない。まるで、映画の冒頭のシーンにタイムスリップしてしまったかのような錯覚を覚える。
そして、女の子の登場から二人の会話。これも自然な脚本なのかと言われると首を傾げたくなる。パク刑事が「顔を覚えているか」と質問すると、女の子は、答えずに、もったいぶって首を縦に降る。それを見てパク刑事がもう一度、「どんな顔だった」と、聞き直す…。非常にサスペンスなシーンではあるが、女の子は演技しているようにも見えてしまう。
そしてとりわけ映画的演出が濃いのはラストカットのパク刑事の目線である。クロースカットに切り替わってパク刑事の顔が画面いっぱいになる。その時はまだ女の子を見ている。そして、ゆっくりカメラ目線になってゆく。このとき、パク刑事が女の子から目線を外してカメラの方を向いたのはなぜか?その理由は特に明かされることなく、スタッフロールが流れる。

最後のシーンだけ、こんなにも「不自然」な演出が盛り込まれているのである。では、この映画は最後で台無しになるのだろうか?
私はそう思わなかった。というより、最後がないと「いい映画」止まりになってしまっただろうと考える。最後のシーンには先述した監督からのメッセージが込められている。それは、物語の中で確かに息づいていた。
パク刑事や、その相方であるヨング刑事の拷問のような取り調べ。証拠や自白の捏造。ソウルからやってきたソ刑事も、最後には容疑者に銃を向け、自白を強要する。上層部の保守的な態度、利権にしがみつき、自らの地位を保身する姿勢、殺人現場にすら顔を出すマスコミの卑近さ。そんな利権にうもれながら、それでも刃向かう民衆の愚かさ。
暴力が巡り、憎しみが連鎖する世界。それは映画の中で絶えず描かれていたテーマだった。最後にぽっとわいて出てきたわけではない。

視聴者は最後のシーンを見るとききっとこう思うのだ。「犯人は誰だったのか、もはやそれは大きな問題ではない。悪や悲しみは世界で連鎖し、私の周りでも違いなく巡っている。この映画は私の世界と地続きなのだ。これは映画であって、現実なのだ」と。

それを見事に橋渡ししてくれているのが最後の演出なのだ。営業先をほったらかすパク刑事にはじまり、最後には彼がカメラ目線で我々を思いっきり見つめる。映画というフィクションから我々の日常へグラデーションを描くように滑り込んでくる。きっとこの凄惨な事件も、我々の世界とどこかでつながっている。憎しみはどこかでまた芽を出し、息づいているのだろう。

素晴らしい映画は見た後に、現実の世界が違って見える。という。
殺人の追憶』はたくさんの伏線やプロットを駆使し、我々の現実に直接働きかけ、観る者を圧倒する。ポン・ジュノ監督の出世作としても納得の一本であった。

映画との出会いに感謝。